ロッテ・角中勝也選手の引退試合を入り口に、引退の前後で「自分とは何か」のとらえ方がどう変わるかを追った研究を紹介。最後のシーズンを迎える高校・大学の選手と指導者が、引退に前もって備える方法を考えます。
3行でわかる
- 引退試合のニュースを入り口に、野球をやめるときに「自分とは何か」がどう揺らぐかを考える
- 大学生選手を引退の前後で追った研究では、引退前から競技者としての自分の比重を下げた選手に大きな混乱は見られなかった
- 最後のシーズンも全力で取り組みながら、野球以外の自分の役割を少しずつ言葉にしておく
高校3年生の夏、大学4年生の秋。どの選手にも、いつか最後のシーズンが来ます。毎日グラウンドに立っていた生活が終わると、何をすればいいのかわからなくなった。引退した先輩から、そんな話を聞いたことがある人もいるでしょう。
野球をやめるとき、なぜ「自分とは何か」が揺らぐのでしょうか。そして、その揺らぎに前もって備えることはできるのでしょうか。この記事では、引退の前後で選手の「自分のとらえ方」を追いかけた研究を紹介し、最後のシーズンを迎える選手と指導者にとっての意味を考えます。
今日の話題:20年の現役生活を終えた引退試合
10月2日、ZOZOマリンスタジアムのソフトバンク戦で、ロッテの角中勝也選手の引退試合が行われました。パ・リーグ.comによると、角中選手は6番・左翼で先発出場しました。この試合が、ロッテ一筋20年で通算1514試合目の出場でした。
引退セレモニーのスピーチでは、角中選手がその場でスマートフォンを取り出し、SNSへの投稿を観客に呼びかけました。後輩たちには、常勝軍団になるチームが見たいとエールを送りました。
プロ野球では、シーズン終盤の9月から10月に引退試合が続きます。この記事は、角中選手の気持ちを推測するものではありません。「長く続けた競技をやめる」という、多くの選手が必ず通る節目を、研究にもとづいて考えます。
論文を読む:引退の前から「自分」を組み直した選手たち
今日の論文
Identity and athletic retirement: A prospective study
- 問い 選手の「自分とは何か」というとらえ方は、引退の前後でどう変わるのか。
- 方法 大学生の選手6人(男性3人・女性3人)に、1対1の詳しいインタビューを3回行いました。時期は、最後のシーズンの初め、引退の約1か月後、さらに約1年後です。
- 結果 選手たちは競技の目標に強く打ち込みながら、引退で自分のとらえ方が崩れることを予想していました。そこで、引退の前から、競技者としての自分の比重を自分から小さくしていました。その結果、引退のときにも引退後にも、大きな混乱は見られなかったと報告されています。
要約は野球メンタルラボによるものです。正確な内容は原著論文をご確認ください。
用語を整理する
この研究を理解するために、3つの用語を区別します。
| 用語 | 定義 | 野球での例 |
|---|---|---|
| 競技者アイデンティティ | 自分を「競技者」としてとらえる度合い | 「自分は野球部の捕手だ」が、自己紹介で最初に出てくる |
| アイデンティティの再体制化 | 引退をきっかけに、「自分とは何か」のとらえ方を組み立て直すこと | 「元捕手で、今は〇〇を学ぶ学生だ」と言えるようになる |
| 先を見越した比重の調整 | 引退の前から、自分の中で競技者としての自分が占める割合を、自分から小さくしておくこと | 最後の秋季リーグ戦の間に、卒業後に取り組むことを決めておく |
「アイデンティティの再体制化」は、豊田と中込が、日本の引退研究を整理した論文で使った言葉です。彼らは、引退を「自分とは何か」を組み立て直す過程としてとらえる枠組みを示しました。
結果を図で読む
Lallyの研究で報告された流れを図にすると、次のようになります。
- 引退で自分が揺らぐと予想する最後のシーズンの初め
- 競技者としての比重を自分から下げる引退の前
- 大きな混乱が見られない引退の約1か月後・約1年後
注目したいのは、選手たちが競技への打ち込みをやめたわけではない点です。目標に全力で向かいながら、同時に「競技者だけではない自分」を準備していました。
著者は、競技人生が終わるずっと前に自分をとらえ直しておくことが、引退という移行の中で自分のとらえ方を守る可能性がある、と結論づけています。豊田と中込も、引退の危機に直面する前に、引退後について具体的な見通しを持つことが必要だと述べています。
野球に置き換えると
ここからは、研究で扱われた「引退前の比重の調整」が、野球のどの場面に当てはまるかを考えます。
野球に置き換えると
大学4年生、最後の秋季リーグ戦 Lallyの研究の対象者に最も近いのが、この場面です。リーグ戦で全力を尽くしながら、卒業後の仕事や学びについて、具体的に何をするかを言葉にしておく。これが、研究で報告された「先を見越した比重の調整」に当てはまります。
高校3年生、夏の大会の直前 高校野球では、夏の大会の負けが、その日のうちに引退になります。引退の日をあらかじめ決められない点で、大学生のリーグ戦とは条件が違います。研究の対象は大学生だったため、高校生に同じことが言えるかは確かめられていません。
当てはまらない例:スランプで先発を外れた時期 一時的に試合に出られない時期の落ち込みは、引退とは違います。この研究が扱ったのは、競技生活そのものが終わる移行です。スランプの時期に「野球以外の自分」を強調することが役立つかは、この研究からは言えません。
今日からできること
研究が示したのは、6人の選手の経験です。「どの方法をとれば引退後の混乱が防げるか」を、多くの人で確かめた研究ではありません。以下は、研究の結果と、豊田・中込の論文の提言から考えられる提案です。
選手向け(最後のシーズンを迎える人)
- 最後のシーズンの目標は、これまでどおり具体的に立てる。比重を下げることは、手を抜くことではない
- 「野球部の〇〇」以外に、自分を説明する言葉を1つ書いてみる。たとえば「数学が得意」「後輩に教えるのが好き」など
- 引退後の最初の1か月に、何に取り組むかを決めておく
- 目標の立て方は、次の記事も参考にしてください
指導者向け
- 最後のシーズンの初めに、選手が引退後の過ごし方を話せる時間をつくる
- 引退した先輩に、引退直後の生活がどう変わったかを話してもらう
- 引退後に気持ちの落ち込みが長く続く選手がいれば、一人で抱えさせず、学校の相談窓口などの専門家につなぐ
研究からわかること・わからないこと
- 対象者は6人:インタビューで経験を詳しく調べる研究です。6人に見られた経験が、多くの選手に同じように当てはまるとは限りません。
- 野球選手の研究ではない:対象は大学生の選手で、競技は要旨からは特定できません。プロ野球や高校野球の選手にそのまま当てはまるとは言えません。
- 比べる相手がいない:比重を下げなかった選手との比較はしていません。比重の調整が混乱を防いだと言い切ることはできず、著者も「守る可能性がある」という表現にとどめています。
- 話題との関係:角中選手の引退後の生活や、その準備について述べるものではありません。
まとめ
- 自分を「競技者」としてとらえる度合いを、競技者アイデンティティと呼ぶ
- 大学生選手を引退の前後で追った研究では、引退の前から競技者としての比重を自分から下げた選手に、大きな混乱は見られなかった
- その選手たちは、競技の目標にも強く打ち込んでいた
- 最後のシーズンに全力を尽くすことと、引退後の自分を準備することは両立する、とこの研究からは考えられる
最後のシーズンを悔いなく戦うことと、その先の自分を準備することは、どちらかを選ぶものではありません。グラウンドで全力を尽くしながら、野球以外の自分を一つ言葉にしておくことが、引退という節目への備えになります。
参考文献
- Lally, P. (2007). Identity and athletic retirement: A prospective study. Psychology of Sport and Exercise, 8(1), 85–99. https://doi.org/10.1016/j.psychsport.2006.03.003
- Toyoda, N., & Nakagomi, S. (2000). Discussion of identity reconfirmation with retiring athletes[競技引退に伴って体験されるアスリートのアイデンティティ再体制化の検討]. Taiikugaku kenkyu (Japan Journal of Physical Education, Health and Sport Sciences), 45(3), 315–332. https://doi.org/10.5432/jjpehss.kj00003397608